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□ドゥオ夢
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例えば、淵ぎりぎりまで水の入ったグラスがほんの少しでも揺れてしまったら。
透明な雫が零れてしまうのは当たり前のこと。
ゆらゆら、ゆらゆらと水面は震えて。
なんて、危ういのだろうか。
大粒の雨が、容赦も優しさも一切感じさせない強さでローマの町に降り注ぐ。
見た目にも重い、黒の僧服は水を含んでずっしりと肌にのしかかる。
あまりの雨の勢いに、すぐ傍らに立つ彼の制服の灰色さえも背景に霞む。
ついさっき偶然出会った時から彼は一言も喋らない。ただ、座り込んだ彼女の小さな背中を見つめている。
ぼんやりと地面を──正確にはその上に投げ出された花束を──眺める少女の頬に雨粒が打ち付ける。
濡れた髪が首筋に張りついて、少し気持ち悪い。
「……しかた、なかったんだけどね」
呟いた言葉に、静かに瞳を閉じる。
網膜に焼き付いた紅はあまりに鮮明で、瞬きを繰り返しても消えてくれない。
「ああする他、方法がなかったんだ」
誰も、少女の選択を責めることはなかった。誰であれ彼女と同じような道を選びざるをえなかったからだ。
それなのに、嗚呼、それなのに。
きつく、きつく。目を閉じて大きくかぶりを振った。
ゆらゆら、ゆらゆらと。
さざ波が、止まない。
花びらが、無残にも足元に散っている。
幾すじも幾すじも冷たい雨が頬に跡をつけていく。
シスター、と。此処に来てから彼が初めて口を開いた。同時にぐいと、腕が引き上げられる。
咄嗟に顔を伏せようとしたけれど、頬をとらえた手がそれを許さない。
「ドゥオ、離して……!」
ゆらゆら、ゆらゆらと。
自分でも分かってるんだ。もう、限界なんだよ。
お願いだから、ほうっておいてくれ。
「否定。──お前の、涙が見られない」
そう言って、そっと雨の軌跡を指でなぞる。その指先が、あまりにも優しすぐた。
ゆらゆら、ゆらゆらと水面は震えて、ほろりと、涙が零れ落ちた
ぽろぽろと幾滴も彼の手を濡らしていく。
「……っ!」
少女の慟哭は雨の音にかき消されて、彼の腕の中だけに響いた。
縋りついた服はすっかり冷たくなって、背中に回された腕だけが暖かかった。